新型コロナ対応を批判する人々の問題(長文だが重要)
現在の日本及び世界の新型コロナの対応を批判的に見る人に見ていただきたく、読んで同意する方にだけ拡散していただきたい。
先日、クラスターフェスとかいう集まりがあったと聞いた。新型コロナの現在の市民、日本、世界の対応を批判、否定して集まる会だ。私は主催者に会ったこともなければ、参加したわけでもなく、その様子はネットを介して知るのみである。そして特にこの集まりに対して否定をしたいわけではない。
常に述べてきたように、新型コロナに対する人々の対応は非科学的で、支配的であり管理的であり、同一意識的であり差別的である。まるで戦前の風潮を思わせるような世の中であり、それに左翼的な人々が加担しているのだから、もはやお笑いとしか呼べない。このフェスもそれに対するアンチテーゼであろう。
しかし繰り返すがこの記事は、集まりに対する否定ではない。むしろこの集まりを否定する人々に対する評価であり、集まりを叩かれることによって生じる、「新型コロナ対応を批判する人々」の反応こそ問題であると感じる。ここで、集まりを否定する人々と新型コロナ対応を批判する人々は、別の人々であることに留意していただきたい。
集まりを否定する人々は非常に非科学的であり、集団意識のみが高く人を虐めるのが大好きであることは共通である。その中にまったく考えない人と自称事情通の分かったふりの人が混在する。彼らの中にある共通心理は狭情的な心理とドグマであって、自分が正義であることに酔いしれているだけだ。
ではもう一方はどうだろうか。「新型コロナ対応を批判する人々」は私の情報媒体をおそらく見ているだろうし、他の情報も集めているだろう。それはよい。しかしこの集まりが一部メディアで叩かれるにつれて、何かしらの反応を有するようになる。その反応は冷静さを装うところにポイントがある。
反応はこの集まりがコロナ対応を批判することには同意するが、もうちょっとやりかたがあるのでは?とか、オカルトと思われるのを避けたいとか、自分たちに被害が及ぶのを防ぎたいという心情を示している。正論じみたこの発想がいかに見せかけの嘘か、を考える人はいないだろうと思いこの記事を書いている。
私はこれまで長年いろんな活動に携わってきた。自分でもそれなりに有名になったと思う。医療、食、社会毒から環境問題、児童問題など情報を出してきたが、たくさん叩かれてきたと思う。と同時に多くの人が同意を示し寄ってきたが、その人々を信用したことがない。その理由にこの記事は通じていると思う。
なぜ信用しないかというと、集まりを否定する人々と同じように見えるからだ。医療問題などを発信して同意を示して寄ってくる人も、新型コロナ対応を批判する人のある種の反応も、やはり自分たちが正義であるという前提を覆すことはできていない。彼らは全員自分たちが正義でないと困るのだと思う。
もうちょっとやりかたがあるのでは?とか、オカルトと思われるのを避けたいとか、自分たちに被害が及ぶのを防ぎたいという心情も、すべては自分たちが正義であり、なぜ自分たちが叩かれなくてはいけないのか、という意味を含んでいる。メディアには叩かれないようにして、SNSで自己正義を語るのに酔いしれていたいわけだ。
彼らは社会活動や闘争的な改善行動というのを勘違いしているのだと思える。自分たちは正しいことをしているのだから批判されるわけはない、自分が間違っているわけはない、人々が目覚めていないだけだ、などと思っている。それが傲慢であり誤解であることを指摘するものは誰もいない。
おそらく逆である。社会活動や闘争的な改善行動というのは、批判され否定され正義側でないところから始まるのに、彼らは前提を勘違いしている。これはテロを肯定とかそういう話ではなく、少数派なのだから認められるはずはない、という前提にたてないで行動しているという点にある。
その前提に立てていないからすぐに「反応」してしまう。前提を理解しモチベーションが高く真の社会意識がある人は、叩かれることに対して微塵も心が揺らがない。むしろ批判や否定があることを裏の心では喜んでいたりする。そのような人は希少だが、そのような人は正義側に自分を置こうと考えていないのだ。
先住民の闘争でも奴隷解放運動でも同じである。正義ばかりを主張する人で構成されてもうまくいかない。悪魔に魂を売るのではなく、自分が少数派であり否定される立場であることを完全理解して、社会的に悪と呼ばれる立場に身を置くのである。それができない人が社会運動をしても100%結果が出ることはない。
違う言い方をすれば、現代において社会活動をしているほぼすべての人が、なにかしらの承認欲求がベースでしか動けていないということである。それならお金目当てで動いているほうがまだわかりやすくてよいくらいだ。私は虚無タイプの人間なのでこういう人々を好きになることができない。
だから自分に正直ではいたいけど正義じみたことに身を浸すのはゴメンだ。人間は常に悪であり、すべてにおいて存在価値がなく、すべてにおいて奴隷であると思っている私にとって、自分や新型コロナ反対運動をどういわれようと、それに一喜一憂する理由を感じないのだ。残念ながらこのことは理解されないらしい。
実はこのことは「新型コロナ対応批判やその行動」が何を意味しているかに通じる。それは難しい話ではなく自由解放運動なのだということを忘れているのだ。感染者数から死亡者数のウソ、対応からマスクからのウソ、世界の情勢から陰謀論的なことまで、それを補強するためのツマラナイ情報にすぎない。
だから自粛警察とか同一主義とか共産主義とかいう言葉が、新型コロナ対応を象徴する言葉として躍るのである。もっと簡単に言えば、「こんなつまらないウイルスに踊らされて私たちの最低限の自由を奪わないで」という意思表示でもある。そして人々はこの言葉を吐くときの自己の前提を忘れている。
自由解放運動が前提とすれば、それが弾圧されないと誰が思うのであろう。しかしほぼすべてが奴隷である現在、自由解放運動は正義の運動なので、弾圧されるわけはないと思っているのである。なんという勘違いでありクレクレ人間なのだ。依存症の人間にとって自由も権利も与えられて当然のものであるらしい。
闘うとは武器を持つことではない。それはあるとしても最後の段階にすぎない。闘うとは自分の正義に酔いしれることではなく、弾圧など当たり前の前提として準備する意志である。簡単に言えば叩かれて嫌なら最初から社会活動などやるなと言いたい。フェスやっているほうがネットで語っているよりましだ。
無理にフェスをやれということではない。やり方はそれぞれにいろいろあってしかるべきである。だから私も参加する気はなかったが、左翼や脱原発のような人間もファシズムと同一主義に走り、よりちいさく分断化した現在、やる人は個の意志がなければ無理である。そんなことを思ってフェスの話を見ていたのである。
思えば脱原発もそういう正しい思考のウソつきたちが集まっただけのカルトだった。原発から脱却するのは良いと思うが、ビビッている人間が正義を主張するためにデータを集めただけだった。彼らには信念も意志もなく、基本もなく哲学もなく、人の心理がどうであるかの法則も理解できていなかった。
だからうまくいかなかったのだが、また日本人は同じことを繰り返そうとしている。いや、これまでも同じことを人類も日本人も繰り返してきたのだと思う。こんな記事を書いたってそんな絶望的な状況が改善する見込みはない。しかし書いてしまう私もまた同類なのかもしれない。しかし書いてしまうのである。
新型コロナ対応への批判を自由解放運動に例えるとすれば、この運動はきっと成功しないだろう。しかしそれは続けない理由にはならないのだ。私が思うにこれは私という人間の根源的欲求でもあり、一科学者としての矜持でもあるのかもしれない。それはダメでも意志を示し続けるという思いである。
だから究極的には一人でもやるのだ。思えば12年前、いまなどとは比べ物にならないくらい叩かれたが、私にとってそれは重要ではなかった。12年前より有名になり叩かれ方が変わっても、やるべきことは変わっていない。私は人であり続けニーチェでいう超人を目指すためにやり続けるだけだ。
風潮に逆らう人々よ、思い返したほうがよい。なぜあなたが新型コロナの問題を取り扱うようになったのかを。知ったかぶりしたいだけの心情がほぼすべての人に透けて見える。そんなものは誰の心に届くものでもないであろう。生きている意味が分からない限りコロナ情報戦争でも負け続けるのではないだろうか。
先日、クラスターフェスとかいう集まりがあったと聞いた。新型コロナの現在の市民、日本、世界の対応を批判、否定して集まる会だ。私は主催者に会ったこともなければ、参加したわけでもなく、その様子はネットを介して知るのみである。そして特にこの集まりに対して否定をしたいわけではない。
常に述べてきたように、新型コロナに対する人々の対応は非科学的で、支配的であり管理的であり、同一意識的であり差別的である。まるで戦前の風潮を思わせるような世の中であり、それに左翼的な人々が加担しているのだから、もはやお笑いとしか呼べない。このフェスもそれに対するアンチテーゼであろう。
しかし繰り返すがこの記事は、集まりに対する否定ではない。むしろこの集まりを否定する人々に対する評価であり、集まりを叩かれることによって生じる、「新型コロナ対応を批判する人々」の反応こそ問題であると感じる。ここで、集まりを否定する人々と新型コロナ対応を批判する人々は、別の人々であることに留意していただきたい。
集まりを否定する人々は非常に非科学的であり、集団意識のみが高く人を虐めるのが大好きであることは共通である。その中にまったく考えない人と自称事情通の分かったふりの人が混在する。彼らの中にある共通心理は狭情的な心理とドグマであって、自分が正義であることに酔いしれているだけだ。
ではもう一方はどうだろうか。「新型コロナ対応を批判する人々」は私の情報媒体をおそらく見ているだろうし、他の情報も集めているだろう。それはよい。しかしこの集まりが一部メディアで叩かれるにつれて、何かしらの反応を有するようになる。その反応は冷静さを装うところにポイントがある。
反応はこの集まりがコロナ対応を批判することには同意するが、もうちょっとやりかたがあるのでは?とか、オカルトと思われるのを避けたいとか、自分たちに被害が及ぶのを防ぎたいという心情を示している。正論じみたこの発想がいかに見せかけの嘘か、を考える人はいないだろうと思いこの記事を書いている。
私はこれまで長年いろんな活動に携わってきた。自分でもそれなりに有名になったと思う。医療、食、社会毒から環境問題、児童問題など情報を出してきたが、たくさん叩かれてきたと思う。と同時に多くの人が同意を示し寄ってきたが、その人々を信用したことがない。その理由にこの記事は通じていると思う。
なぜ信用しないかというと、集まりを否定する人々と同じように見えるからだ。医療問題などを発信して同意を示して寄ってくる人も、新型コロナ対応を批判する人のある種の反応も、やはり自分たちが正義であるという前提を覆すことはできていない。彼らは全員自分たちが正義でないと困るのだと思う。
もうちょっとやりかたがあるのでは?とか、オカルトと思われるのを避けたいとか、自分たちに被害が及ぶのを防ぎたいという心情も、すべては自分たちが正義であり、なぜ自分たちが叩かれなくてはいけないのか、という意味を含んでいる。メディアには叩かれないようにして、SNSで自己正義を語るのに酔いしれていたいわけだ。
彼らは社会活動や闘争的な改善行動というのを勘違いしているのだと思える。自分たちは正しいことをしているのだから批判されるわけはない、自分が間違っているわけはない、人々が目覚めていないだけだ、などと思っている。それが傲慢であり誤解であることを指摘するものは誰もいない。
おそらく逆である。社会活動や闘争的な改善行動というのは、批判され否定され正義側でないところから始まるのに、彼らは前提を勘違いしている。これはテロを肯定とかそういう話ではなく、少数派なのだから認められるはずはない、という前提にたてないで行動しているという点にある。
その前提に立てていないからすぐに「反応」してしまう。前提を理解しモチベーションが高く真の社会意識がある人は、叩かれることに対して微塵も心が揺らがない。むしろ批判や否定があることを裏の心では喜んでいたりする。そのような人は希少だが、そのような人は正義側に自分を置こうと考えていないのだ。
先住民の闘争でも奴隷解放運動でも同じである。正義ばかりを主張する人で構成されてもうまくいかない。悪魔に魂を売るのではなく、自分が少数派であり否定される立場であることを完全理解して、社会的に悪と呼ばれる立場に身を置くのである。それができない人が社会運動をしても100%結果が出ることはない。
違う言い方をすれば、現代において社会活動をしているほぼすべての人が、なにかしらの承認欲求がベースでしか動けていないということである。それならお金目当てで動いているほうがまだわかりやすくてよいくらいだ。私は虚無タイプの人間なのでこういう人々を好きになることができない。
だから自分に正直ではいたいけど正義じみたことに身を浸すのはゴメンだ。人間は常に悪であり、すべてにおいて存在価値がなく、すべてにおいて奴隷であると思っている私にとって、自分や新型コロナ反対運動をどういわれようと、それに一喜一憂する理由を感じないのだ。残念ながらこのことは理解されないらしい。
実はこのことは「新型コロナ対応批判やその行動」が何を意味しているかに通じる。それは難しい話ではなく自由解放運動なのだということを忘れているのだ。感染者数から死亡者数のウソ、対応からマスクからのウソ、世界の情勢から陰謀論的なことまで、それを補強するためのツマラナイ情報にすぎない。
だから自粛警察とか同一主義とか共産主義とかいう言葉が、新型コロナ対応を象徴する言葉として躍るのである。もっと簡単に言えば、「こんなつまらないウイルスに踊らされて私たちの最低限の自由を奪わないで」という意思表示でもある。そして人々はこの言葉を吐くときの自己の前提を忘れている。
自由解放運動が前提とすれば、それが弾圧されないと誰が思うのであろう。しかしほぼすべてが奴隷である現在、自由解放運動は正義の運動なので、弾圧されるわけはないと思っているのである。なんという勘違いでありクレクレ人間なのだ。依存症の人間にとって自由も権利も与えられて当然のものであるらしい。
闘うとは武器を持つことではない。それはあるとしても最後の段階にすぎない。闘うとは自分の正義に酔いしれることではなく、弾圧など当たり前の前提として準備する意志である。簡単に言えば叩かれて嫌なら最初から社会活動などやるなと言いたい。フェスやっているほうがネットで語っているよりましだ。
無理にフェスをやれということではない。やり方はそれぞれにいろいろあってしかるべきである。だから私も参加する気はなかったが、左翼や脱原発のような人間もファシズムと同一主義に走り、よりちいさく分断化した現在、やる人は個の意志がなければ無理である。そんなことを思ってフェスの話を見ていたのである。
思えば脱原発もそういう正しい思考のウソつきたちが集まっただけのカルトだった。原発から脱却するのは良いと思うが、ビビッている人間が正義を主張するためにデータを集めただけだった。彼らには信念も意志もなく、基本もなく哲学もなく、人の心理がどうであるかの法則も理解できていなかった。
だからうまくいかなかったのだが、また日本人は同じことを繰り返そうとしている。いや、これまでも同じことを人類も日本人も繰り返してきたのだと思う。こんな記事を書いたってそんな絶望的な状況が改善する見込みはない。しかし書いてしまう私もまた同類なのかもしれない。しかし書いてしまうのである。
新型コロナ対応への批判を自由解放運動に例えるとすれば、この運動はきっと成功しないだろう。しかしそれは続けない理由にはならないのだ。私が思うにこれは私という人間の根源的欲求でもあり、一科学者としての矜持でもあるのかもしれない。それはダメでも意志を示し続けるという思いである。
だから究極的には一人でもやるのだ。思えば12年前、いまなどとは比べ物にならないくらい叩かれたが、私にとってそれは重要ではなかった。12年前より有名になり叩かれ方が変わっても、やるべきことは変わっていない。私は人であり続けニーチェでいう超人を目指すためにやり続けるだけだ。
風潮に逆らう人々よ、思い返したほうがよい。なぜあなたが新型コロナの問題を取り扱うようになったのかを。知ったかぶりしたいだけの心情がほぼすべての人に透けて見える。そんなものは誰の心に届くものでもないであろう。生きている意味が分からない限りコロナ情報戦争でも負け続けるのではないだろうか。
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