家族の中での子どもたちの役割

FBと甲斐由美子さんの記事から引用します。

アダルトチルドレンという言葉をお聞きになられた方は多いと思います。では、アダルトチルドレンとはどういう人を指すのでしょうか?アダルトチルドレンという言葉はもとをただせばアメリカのアルコホリックの治療現場から生まれた言葉です。アルコホリックの親のもとで育った静かで控えめな人々の自己破壊的とも呼べるような他人への献身に注目していたのです。

しかし次第に、アルコホリックに由来するものだけではないことがわかってきました。

虐待する親のもとで育ち、大人になった人たち
機能不全家族のもとで育ち、大人になった人たち

「親との関係で何らかのトラウマを負ったと考えている成人」のことをアダルトチルドレンの定義としているとも言えます。しかし、よく考えてみると多かれ少なかれ、人間は親の影響を受けて大人になります。
アダルトチルドレンという言葉がどうなのだろうかの疑問はありますが、現在通常言われているアダルトチルドレンについて書いてみようと思います。

1981年に出版された クラウディア・ブラックの 「私は親のようにならない」と、1983年に発売されたジャネット・ウォイティッツの「アダルトチルドレン・オブ・アルコホリック」という本がミリオンセラーになったことでアダルトチルドレンの概念が一気に広まったようです。

では、機能不全家族とはどのような家族を言うのでしょうか。
子どもにとって「安全な基地」であること、そのなかで子どもが自らの「自己」を充分発達させることができることこれが健康な家族の機能であるとされています。
機能不全家族は全体国家主義のように個々の家族構成員を拘束し、一定のルールのもとでの生活を強制し、個人のプライバシーを軽視します。被害を受けるのは子どもたちで、親から有形無形に侵入され家のルールに自ら進んで拘束され「良い子」になりがちです。

子どもたちは機能不全家族を維持し続けるために役割にはまり込みそれを演じ続けることになるのです。それでは、どんな役割を演じることが多いのでしょう。

[ヒーロー]
何かが秀でているお子さんがいると、さらなる活躍を期待して熱中し、子どもの方も一層頑張ることになり、ますます一芸に秀でることになります。
昔の漫画で恐縮ですが、「巨人の星」の飛雄馬のようなお子さんですね。

[スケープゴート]
ヒーローの裏側に当たるのがこのタイプのお子さんです。一家のダメを全部背負うような子どもです。
この子さえいなければ全てうまく収まるという幻想を家族全員に抱かせることで家族の真の崩壊を防いでいるようなお子さんのことですね。
病気をするといえばこの子、非行をするといえばこの子、問題を起こすのはいつもこの子という役割のお子さんのことです。
相談を受けていてもこのタイプのお子さんは多いと感じます。

[ロストワン]
「いない子」としての役割をするお子さんもいます。
いつも静かで文字通り「忘れ去られた子」です。家族がなにか一緒にやろうとしても最初はいるけどいつの間にかいなくなっている。いなくなっても誰も気がつかない存在なのです。
家族内の人間関係を離れ自分が傷つくことを逃れようとしているのです。
中学生くらいになってくると、「いないという居方」にも磨きがかかってきます。

[プラケーター]
慰め役のお子さんのことです。
慰める相手は母親です。いつも暗い顔をしてため息をついている母親を慰めます。多くの場合、末っ子ですね。
とても優しく、感受性が豊かです。

[クラン]
道化役のお子さんのことです。
親たちの争いが始まり、家族間に緊張感が走り始めると、突然頓珍漢な質問をし始めたり、踊ったり歌ったりし始めるお子さんのことですね。
普段から、家族にはペット的な扱いを受けていますが、心の中はさみしさが溢れています。

[イネイプラー]
支え役の子どものことです。他人の世話をやいてクルクル動き回っています。長男や長女がこの役割をすることが多いですね。
母親に変わって幼い弟や妹の面倒をみますし、父親替わりをしたりします。
男の子がこの役割をすると依存的な母親とのあいだに情緒的近親相姦が生まれるのです。
女の子がこの役割をすると、もっと深刻な事態が起きることもあります。父親による性的虐待ですね。

この他にもいろいろあると思いますが、ざっとみるとこのような役割があります。
しかし、子どもたちは「無意識の言語」「ふるまい」をしていますので、伝えたいことは彼らにさえもわからないのです。

こうして、自分自身の欲求を棚上げし、他人の欲求を自己に取り入れ、自分の欲求のようにして生きているので、自分の感情を感じることができなくなっているのです。
つまり、彼らは共依存しながら生きているので、「自己の欲望」の中身を知らなければ、自分を生きることができなくなるのです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

安保徹さんと犬丸勝子さんの相つぐご逝去

ザ・マイケルブログへの投稿3つ
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann2016/e/57eefff1eea6e4bd8d505686a566ae7d?st=0#comment-form


(通りがけ改め豊岳正彦)
2017-04-28 18:15:53

このお二人はいずれもNHKにとって報道での黙殺ができない世界的な日本人業績者でした。

お二人のご急逝を悼み謹んでご冥福をお祈りします。



安保徹さんのご業績 (豊岳正彦)
2017-04-28 19:08:00
病は自分で治す

www.youtube.com/watch?v=bH6aqnR5WIM&list=PLYa2XVmiHJxqVNK7Ufp34gp23KeP1sA_E


犬丸勝子さんのご業績 (豊岳正彦)
2017-04-28 19:12:18
「偽装社会」ユーチューブ

日本は世界最悪の暗殺統制 創価の国家犯罪に直撃、不正選挙、不正裁判を追及し続けた犬丸勝子さんの突然の不審死 暗殺場所は病院 金融窃盗団のために闇に葬るための警察、検察、裁判所が葬るこれが日本の仕組み

www.youtube.com/watch?v=g2lO8xmO_gI

こどもはこの世の宝

>家族の中での子どもたちの役割

まったく顛倒したタイトルです。

日本がムー大陸だった時代から日本人は以下の通りです。

山上憶良「しろがねもこがねもたまもなにせむにまされるたから子にしかめやも」

旅の夜風「かわいいこどもは女の命」

すなわち家族のために子供があるのではない。

こどものために家族があるのです。

こどものために群れと社会があるのです。

こどものために宇宙があるのです。

DSM-Ⅲでこどもを分類しても有害無益です。

愚かというも哀れなり。

南無父母無二仏 合掌

No title

世界で一番子どもを殺しさらい支配してきたのが、その日本人とやらですなw。常に日本人は妄想と正当化だけ一人前w。やることはいつの時代も同じw。

http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-488.html
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-420.html
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-417.html
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-401.html
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-331.html

こどもとは?

>世界で一番子どもを殺しさらい支配してきたのが、その日本人とやらですなw。

多細胞生物はすべてこどもから成熟個体になる。

人間という霊長類のこどもとは何歳までか分かりますか?

それがわからなければ「日本人が世界でいちばんこどもをさらい殺した」という立論はできませんよ。

答は太陰暦の元服「数え15~16歳」すなわち太陽暦「満13~14歳」であり、定めれば満14歳までこども、満15歳からは大人と言うことです。

男女の別や国の別無く、人間のこども時代は満14歳・中学2年と生物として定まっています。

“denied PTSD”=“racism”

「子どもにとって「安全な基地」であること、
そのなかで子どもが自らの「自己」を充分発達させることができること
これが健康な家族の機能であるとされています」
これは、PTSD現象学的な表現をすれば、
「人格無視をやられがちな
(0)子ども
(1)有色人種
(2)女性
が先祖代々のPTSD負の連鎖によって「トラウマの再演」をせずに済むように
「安全確保」ができる人的物的環境であること、
そのなかで、家族メンバー個々の歴史的身体が発生し、進化と終焉を迎える場(=field )」これが健康な家族生活の現場でしょう。この件は「フェミニズム」の問題ではないと昨日、コメントを投稿しました。

我が家のオヤジがDV化して自滅していったのは、
我々日本人一族が「アスぺ」だの「ADHD」だの汚い血が流れた「黄色いサル」( http://bit.ly/AsiatischeAffe )だからではありません。オヤジは、
D. M. Allen, 2010,
“How Dysfunctional Families Spur Mental Disorders: A Balanced Approach to Resolve Problems and Reconcile Relationships (Childhood in America) ”
の一読を私に奨めたので、私はそれに目を通し、順天堂大学の越谷病院に診察に行ったとき、主治医と議論しようとしたら、主治医が遮り、もう来なくていい…ということになったのでした(爆笑)。そうして私の通院は終わりました。
 この本の著者によると「アスペ」は生まれつきのもので「不治の病」扱いです。は〜アスペ〜?…勝手に決めないでくれる?…と思いませんか? ついでに、HarvardのBiermanが研究したら「ADHD」は後に「双極性障害」になるそうで、その件は、Biermanが製薬会社の支援を受けた(つまりADHDの子を薬物でコントロルして「教育」は手抜きした)結果、自己コントロールが効かない(薬物性)「双極性障害」になることを示唆しています(←ほのめかしているだけで断言はしていない)。そして、この本のキモは、「機能不全家族」が子どもを病んだ状態にするという点ですね、タイトルのとおりです。

さて、甲斐先生の記事ですか、
「子どもたちは機能不全家族を維持し続けるために役割にはまり込みそれを演じ続けることになる」
ということは、我が家では先祖代々、起きていません。
「自分自身の欲求を棚上げし、他人の欲求を自己に取り入れ、自分の欲求のようにして生きているので、自分の感情を感じることができなくなっているのです。
つまり、彼らは共依存しながら生きているので、「自己の欲望」の中身を知らなければ、自分を生きることができなくなる」
としたら、「自己の欲望」の中身など検討するのは、バカです。大概の人は単に「我意を通すこと」が「自己の欲望」の中身を検討して人生を謳歌することだと勘違いしてしまうからです。これが「機能不全家族」論の拙い点ですね。

家族メンバーの誰しもが
セルフネグレクト強要を受容しない、
セルフネグレクト強要を受容させないで済むように
互いに配慮することが「思いやりの原理(=“the principle of charity”)」すなわち
“caritas”(← “amor” ではない)です。
セルフネグレクト強要を受容させないで済むように
人的・物的環境をできるかぎり整えること
=現実的な「安全確保」に努めること
これがPTSD予防&克服への道を進むための前提です。

発達障害論者が言う「ライナスの毛布」の話ではありません。現実的な被害に遭わないように話し合うことです。例えば、
http://bit.ly/2pLDoG0
に書いたアッシェンバッハというシニアサイエンティストは心理学的なサポートをしたわけではないのです。

「専門家」ならば、
「発達障害論では更生できない」
http://bit.ly/rehabilitare
ということに気づかねばなりません。

そして、
http://bit.ly/ToiletB
の流れは「環境レイシズム」の一種であると認識し、
護衛艦「いずも」が「コバンザメ」と言われる国際情勢のなか、
海上自衛隊も現総理らの「トラウマの再演」に巻き込まれているので、
自衛官に残された道は失踪(=解離性遁走)であることを理解し、
現実的な「安全確保」をしたのち、PTSDに対処せねばなりません。
S先生の臨床知見が有効です。

どうも、お邪魔しました。

子どもの天国蓬莱島

ブログ「これからは共同体の時代」から4月17日記事を転載します。
http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2017/04/5386.html

・・・・・・

結論からいうと、全然違いました。なんかすごいいいです。江戸時代のHOW TO 子育て。

■子どもは超自由に遊んでて、大人は子どもを溺愛してた
日本を訪れた欧米人から見ると日本は「子どもの天国」だったらしい!

道路でも平気で遊んでいて、ほとんど素っ裸で路上を駆け回っていたりして、人力車や馬は子どもをよけて通っていて子どもにとって「大人に大事にされるのは当たり前」だった。

「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われる国はない」「子どもたちは朝から晩まで幸せそうだ」と欧米人の観察者たちは述べている。

そして、驚くことに大人は子どもを叱ったり罰したりすることがほとんどなかったんだって・・・!

「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」と書いている人もいて、日本人の子どもに対する愛情は、そりゃもう「溺愛」「子ども崇拝」の域に達していたらしい。

こんなに自由に遊ばせるって、現代の価値観からすると「放任主義では?」「そんなんで躾大丈夫なの?」とか思っちゃいますよね。でも、うん、大丈夫だったみたい。

・・・・・・・

つづきはあちらで読んで下さい。

No title

ぶはは、このカスイ餓鬼の群れ、本気で嗤えるw。
まあ、でもネット民ごときにそんなん無理だろーな~。
表に出てくりゃ論破すんのは簡単なんだけどな~。
中二がどうとかもう教科書に洗脳されすぎwww。

表に出る

表と裏というレッテルで物を言うのは明治以来の西洋太陽暦ニセ科学文学「教科書」に洗脳されすぎですな。

論破できる、というのもね。

もともと論破など何の意味も無い。

また仮に論破という行為になんらかの意味をつけるとして、論破できるというのなら表で、とか裏で、などと場所や時間を選ぶこと無くいつでもどこでも論破できるはずですよ。

表じゃ無いとできないというのならもちろん裏ではできません。

そして裏でできないことは表でも裏でもどこでもできないのです。

できることはできるしできないことはできない。

それが人間というものですから。



量子力学も間違っている

アインシュタイン力学も量子力学も西洋太陽暦ニセ科学ニセ文学の所産であり、空間論にばかりとらわれて最も大事なものを忘れている。

それは時間である。

太陽暦は、万物の造物主がこの世を6日間かけて働いて作り出し、7日目を休んで安息日の日曜日と決めた。因って日曜日には仕事をしてはならず教会へ行って神の言葉を聞けというのである。

これが太陽暦の「時間軸」だが、考えてみれば、そもそも造物主がこの世を作り始めたときは太陽も地球もない宇宙も無いビッグバンも無いのであるのに、

何故地球が自転してできる一日という時間の単位がそのときに存在するのか。

西洋の科学も文学もすべてこのおかしな太陽暦の自家撞着時間軸の中で構築されている。

最初の最初に虚妄の時間軸を設定しているのが太陽暦西洋文明である。最初の基本が嘘ならそのうえに何を積み上げても砂上の楼閣であり、土台の一階が無い二階建てと同じく完成不可能である。

よって太陽暦時間軸は決して宇宙の真理にたどりつくことはできないのである。

参照:量子力学については以下の頁によくまとめて書かれている。
http://gensenkeijiban.blog.shinobi.jp/

(転載)
科学的医学の宿命 ~物質先行型の西洋思想のパラダイムに支配されている
それでもあなたは医者を信用しますか
リンク より
__________________________
科学的医学の宿命
【科学なのか、数学なのか】
じつは、科学理論には二つの種類のものがあることは、案外知られていません。一つは、じっさいの観測や実験で得られたデータに基づいて構築されるもので、もう一つは、単なる仮定、または推論を、数値や数学的な解釈によって積み重ね、拡大していくというものです。この定義によっておわかりのように、前者が本来の正当な自然科学から導き出される理論であるのに対し、後者は現実の事象から離れた、ややもすると机上の空論になりかねない、きわめて危うい性格のものです。
そしてなんと、今日主流としてまかり通り、もてはやされているのがこの後者の理論なのです。そう、もうお気づきのように、アインシュタインの相対性理論とスティーブン・ホーキングのビッグバン理論がそれです。いずれも仮定を発展させただけの、事実とは無関係の理論であるにもかかわらず、その点を表立って指摘する科学者がほとんどいないのです。
しかし最近になって、当然のことながら、これらの理論に矛盾する現象が続々と観測されるようになり、相対性理論もビッグバン理論も、崩壊の寸前にあることは先述のとおりです。
自然科学であるはずの物理学が、いつの間にか形式科学のなかの数学に成り代わってしまったのです。物理学も観察や測定を必要とすることから、数学的な要素があり、理論を記述するさい、あやふやな直感に頼るより、数式で表現したほうが正確な印象を与えることがあります。
その点で、物理学も数学も同類だと錯覚しがちですが、両者には決定的な違いがあります。それは、物理学が認知可能な対象を研究するのに対し、数学は現実的な存在には依存しないという大きな違いです。数学ではゼロやマイナスという概念が堂々と登場しますが、自然界にはそんなものは絶対にありえないのです。ホーキング宇宙論の特徴は、「虚時間」や「虚空間」が随所に記述されていることですが、そんなものは宇宙のどこにも実体として存在しません。

【ニュー・エイジ・サイエンス】
1970年代に、「現代物理学は、研究手段の限界からこの世界の現象を解明できておらず、今後も解明の見通しはほとんどない」と宣言し、アメリカを中心にいわゆる『ニュー・エイジ・サイエンス』運動を始めた少数の科学者がいました。
これらの科学者は異口同音に、「現代科学の欠陥や行き詰まりは、世界を細かく分割して扱うデカルト哲学に原因がある、また、この世には物質世界(明在系)のほかに人間の意識を含む多次元世界(暗在系)が存在し、物質世界は多次元世界がこの世に投影されたものである」、と主張しました。そして科学本来の発展のためには、意識のパラメーターを導入して多次元世界を解明しなければならず、そのような研究ができるパラダイムの確立がどうしても必要であると、世界の科学者に訴え続けてきたのです。
自然現象を探究して真理を窮めようとする、その過程でさまざまな矛盾が生じるのは、じつはこのパラダイムに問題があったのです。パラダイムとは、一つの分野における科学者の考え方の基本となっている、支配的な理論の枠組みのことです。パラダイムは一度確立されると、後に間違いが立証されても、これを変更するには長い年月がかかります。
・・・・・
こういった科学の矛盾が最悪の形で反映されているのが、じつは現代医学なのです。つまり医学は、物質先行型の西洋思想に傾倒しミクロの波動現象が人体の生理機能を瞬時に統括していることに気づかず、組織や細胞を部分的に固定して観察・分析し、局所的な処置をする、いわば生きた体をロボットとみなすこの考え方や手法が、多くの問題と禍根を残しているわけです。
_______________
その2へ



岸良造
2017/05/03 (Wed) 近代科学 Comment(0) ▲TOP
科学的医学の宿命 その2 ~生命現象はすべて、実体のないものが作り出している現象
その2 それでもあなたは医者を信用しますかリンク
より
_____________________________
【生命は空間の「ゆらぎ」だ】
ワトソンがいうこの根幹の部分こそ、ミクロ世界のなぞのことで、そこはあらゆる科学常識を逸脱する超常現象のカオスであるため、科学が暗在系として匙を投げている世界です。
ところが、そのなぞを解く鍵が、じつは『空間』というものに対する解釈の仕方にあったのです。空間とは空っぽのことではありません。アインシュタインがエーテル概念を認めなかったことは先述のとおりですが、そのために科学は空と無の区別があいまいになってしまい、むしろ空も無もまったく同じもの、数学的な表現でいうなら単なるゼロと解釈してしまったのです。
しかし量子力学は、宇宙空間もあらゆる物質の内部も、すべて空間が占拠しており、その実態は単なる空ではなく、極小微粒子がぎっしり詰まった状態であると説明しています。たとえば1立方センチメートルの物質の塊(固体、液体、気体に関係なく)のなかには、宇宙全体の星の数に匹敵する超微粒子が充満している、というのです。つまり厳密な意味での真空、いいかえれば無など存在しないわけで、空間は万物の母体であるというのが量子力学のエッセンスです。
現代医学が研究している遺伝子やDNAは、あくまで実体のある物質レベルのものです。しかしその働きをコントロールしているものの正体は、そんなマクロレベルの物質ではない、いや物質というより、それこそ宇宙全体に非局所的、同時的に遍満する波動にほかなりません。そして波動は、科学的な手段では絶対に観測や計測できないのです。
ヒトゲノムをすべて解読するという作業は、とくに実用的な意味があるわけではありません。また、たとえいつの日にかそれができたとしても、予想だにしなかった障壁が出現する可能性は十分考えられます。遺伝子の解明などというと、いかにも科学的なムードいっぱいの、楽観的な希望を抱かせるような響きがありますが、実際問題としてそんなものは早晩壁に突き当たり、「新たな問題が生じた」、「もっと研究を深める必要がある」などといって、適当にお茶を濁すことになるのは目に見えています。
・・・・
いよいよ結論です。簡単にいえば、生命は物質の根源のまたその根源から生じてくるものです。私たちが健康体でいられたり、病気になったりというさまざまな人体の現象も、物質を通り超えた、いわば形而上の世界からの「ゆらぎ」の発生と深くかかわっているのです。「ゆらぎ」とは、量子力学的にいえば粒子と反粒子が対生成・対消滅している、それによって生まれる空間エネルギーの状態をいいます。ようするに生命現象はすべて、実体のないものが作り出している現象であり、もともと、西洋思想の科学的機械論で太刀打ちできるものではなかったのです。
フィルヒョウの細胞理論、メンデル・モルガンの遺伝理論がその科学的思考の典型であり、これらの理論を医療の根拠としている限り、現代医学は宿命的に、永遠に病気を克服することはできないでしょう。この厳然たる事実に背を向け、危険極まりない毒(薬品)や放射能(放射線)やメス(外科手術)で生命を脅かしたり、しばしば抹殺さえしてしまう現代医学にたいし、私たちは断固として決別を宣告すべきであると考えます。
____________________________



岸良造
2017/05/03 (Wed) 近代科学 Comment(0) ▲TOP

佛教は太陰暦である

仏教聖典から。
https://sptnkne.ws/es3f


仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項 (華厳経)

 この世の中には、三つの誤った見方がある。

もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。

 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。

二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。

三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。

 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。

 したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。

 次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

 だから、この三つの見方はみな誤っている。

どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。

(A6文庫本p45)

生物の最小単位は細胞であり

生物の存在の時間軸すなわち体内時計は太陽暦では無く太陰暦の時間軸です。

これは始まりも無く終わりも無いこの宇宙の真理仏法の時間軸です。

日本はムー大陸時代から明治6年まで太陰暦でした。

釈尊誕生以前の何百億年も前から日本人は太陰暦仏教徒仏弟子菩薩であり、ここは菩薩が暮らす地上の仏国土だったです。

参照:神功皇后紀を読む会(主宰福永晋三)漏刻
https://blogs.yahoo.co.jp/nqqyx393/35556844.html#35556844

仏教聖典

仏教聖典|ブックアプリのダウンロード・再生
http://incloudapp.com/posts/information/%E4%BB%8F%E6%95%99%E8%81%96%E5%85%B8/12693


スプートニクの豊岳正彦投稿から仏教聖典

 第二節 心の構造

 一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
 
 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。

 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。

 すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。


 二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

 この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。

 生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。

 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。

 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。


 三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)

 この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 

 身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。

・・・・・

No title

ぶはは、ますますさいこーw。
結局引用だよw。どんだけ依存症w。
コメント欄埋めてどんだけわかってチャンよw。
スピ系のやつがいかにイッテルかそのまんまw。

長文を掲載してくれてありがとう

量子力学論の転載は太陽暦時間軸の誤りを明らかにするためにしたものです。宇宙の真理は太陰暦仏法なのですから。

また、わたしの書いた文はすべて私が自分で考え出したものではなく、釈尊仏陀が宇宙の真理を説き明かした難解なお経をわかりやすい現代日本語に翻訳した「仏教聖典」に書いてある内容を、さらに現代日本語の用語を用いて書き直しただけの、すべて私の著作権など権利一切が存在しない翻訳です(笑)

私が拙い翻訳でお返事するよりも、日本人仏教徒の先達が優れた翻訳を昭和になって出版してくださった「仏教聖典」からそのまま転載するほうが、はるかに容易にご理解戴けると存じますので、転載させて戴きましょう。

長文陳謝。

・・・・・

 心の構造
  迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。
 ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
  人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。
 汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。
  絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。
 この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。
  ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。
 なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。
  迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。
  このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。
 迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。
  すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。
 汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
  しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。
 悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。
  善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。


 心のけがれ

  仏性を覆いつつむ煩悩に2種類ある。
  1つは道理に迷う理性の煩悩である。2つには実際に当たって迷う感情の煩悩である。
  この2つの煩悩は、無明(むみょう)と愛欲となる。
  無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。
 愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、死を願うような欲望ともなる。
  この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。
  この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の3つの火といわれる。
 貪りの火は、欲にふけって真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害する人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
  まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。
 貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、――さまざまな火によって炎々と燃え上がっている。
 これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の3つの悪い行為に導くことになる。
  貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。
 貪りの罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。
 愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。
  人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。
  人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
  人は欲のために争い、欲のために戦う。また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺をはたらき、姦淫する。
  また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。
  外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。
 貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、4つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。
  心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。
 意の3つ、口の4つ、身の3つ――これらを十悪という。
  人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくる。人の不幸も難儀もまた、愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
  人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの3つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。
  この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻から逃れるすべを知らない。
 永劫に回転する輪廻に従って、人はこの現在の生から次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

  迷いのすがた

  この世の人びとは、身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。
 なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。
  富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。
 あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。
  貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。
 このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。
  人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。
 しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。
  この世の争いは、互いに害し合ってもすぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生を変え、死を変えて、互いに傷つけ合うようになる。
  人は愛欲の世界にひとり生まれ、ひとり死ぬ。
 未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。
  善と悪とはそれぞれの報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらすことが、動かすことのできない道理によって定まっている。
 しかも、それぞれがおのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。
  まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つない。
 この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りと言わなければならない。
  このような有様がこの世の姿である。
 人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。
 だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。
  栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。
 この世の快楽も何一つ永続するものはない。
  だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。
 道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。
  ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。
 また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。
 善悪にかかわるすべてのことを信じない。
  ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。
  どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。
 ただ、これについて苦しみ悲しむことだけ知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。
  人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。
 しかも今日に至ってもなお、迷いは絶えることがない。
 いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。
  だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。
  仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。
 また仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。
 

心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。
  第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。
 すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。
  見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。
  第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。
 明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。
  第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。
 着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。
 着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためであると考える。
 この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。
  第四には何ごとも耐え忍ぶことである。
 暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶ。
 この忍びを受けることによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。
  第五には、危険から遠ざかることである。
 賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。
 このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。

  二、世には五つの欲がある。
 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。
  多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。
 これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。
 まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。
 だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。

  三、その方法は一つではない。
 例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。
  このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその往みかに帰ろうとする。
 蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。
 このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。
  ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。
  またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。
 はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。
  これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。
 もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

  四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。
 それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。
 いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。
  名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。
 甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。
  愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。
 手を焼き、身を焼くのは当然である。
  貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。
 自分の心をほしいままにしてはならない。
 心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。

  五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。
 干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。                                      
  美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。
 心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。
  道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。
 この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。
  道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。
 欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。

  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。
 どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。
  身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。
 心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。
  宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。
 広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。
  貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。

  七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。
 貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。
 瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。
 損なうことを思えば損なう心が多くなる。
  牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。
 これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。
  人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。
 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。
  牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。
 しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。
  人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。

  八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。
 釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
  そのときアーナンダは釈尊にこう言った。
  「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」
  「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」
  「世尊よ、また他の町へ移ります」
  「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。
 わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。
 アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。
 こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」


 善い行ない

  一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。
 身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。
 口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。
 意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。
  心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。
 だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

  二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。
 親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。
 その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。
  あるとき、その女中がこう考えた。
  「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」
  そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。
 主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。
  「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。
  女中はさらに次の日も遅く起きた。
 主人は怒り、棒で打った。
 このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。

  三、だれでもこの女主人と同じである。
 環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。
 しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。
  自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。
  だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。
 仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。

  四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみのあることばと憎しみのあることば、この五対がある。
  この五対のいずれによって話しかけられても、
  「わたしの心は変わらない。
 粗いことばはわたしの口から漏れない。
 同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」
と努めなければならない。

  八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。
 人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。
 人はこの反作用に用心しなくてはならない。
 それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。
 それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。
 それは風に向かってちりを掃くようなものである。
 それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。
 仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。

・・・・・

No title

量子力学の基礎をまったく分かってない人が、なんかをかじった気になるとこうなるという見本中の見本ですなw。

仏教伝道協会出版太陰暦佛教の現代日本語経典「仏教聖典」

「仏教伝道協会」とは・・・
https://sptnkne.ws/dDF5

仏心慈悲布施菩薩常民大和民族の先祖代々人主主義仏国土庶民社会
______________

「仏教伝道協会について」

 仏教伝道協会のことを語るには、先ず一人の実業家沼田恵範氏(株式会社三豊製作所創立者)のことを語らなければならない。

 彼は、今から四十余年前に現在の事業を始めたとき以来、事業の繁栄は天・地・人により、人間の完成は智慧と慈悲と勇気の三つが整ってのみできるものであるとして、技術の開発と心の開発をめざして会社を設立した。

世界の平和は、人間の完成によってのみ得られる。

人間の完成をめざす宗教に、仏教がある。


 彼は四十余年にわたる会社経営のかたわら、仏教伝道のために仏教音楽の普及と近代化を志し、仏教聖画や仏教聖典の普及に努めてきたが、一九六五年一二月にこれら一切の仏教伝道事業を組織化し、これを世界平和の一助とするために私財を寄進した。

 かくて仏教伝道協会は、仏教伝道の公の機関として発足した。

仏陀の教えを遍(あまね)く一切に及ぼして、すべての同胞*と共にこの大智と大悲の光に浴するにはどうしたらよいか。

 仏教伝道協会は創設者の意志を引き継ぎ、この問題を永遠に問い続けてゆこうとするものである。

 約言すれば、仏教普及のためのあらゆる努力が仏教伝道協会の事業のすべてである。



 この聖典は日本の長い歴史をふり返ったとき、我々が仏教文化をその誇りとしながら、真に日本人の経典といえるものを持たなかったことを反省して生まれたものである。

 したがってこの聖典は、だれでも読める、読んで心の糧となる、どんな人でも、その机上に置いて、また外出時に携え、生きた釈尊の大人格に触れることができるように作られている。


 仏教伝道協会は、この聖典が一つでも多くの家庭に入り、一人でも多くの同胞の手に渡り、すべての人がひとしく教えの光に浴することのできる日のくることを願ってやまない。


合掌

_____________

以上、仏教聖典*より、いち仏教徒豊岳正彦が転記しました。


用語註___*同胞

同胞とは父母の細胞を同じくする生物種のことであり、ここではこの世のすべての人間を意味します。

同国人のことをしめす同朋ではありません。


用語註___*仏教聖典

www.bdk.or.jp/buy/bukkyoseiten.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四正勤(仏教聖典)

これから起ころうとする悪は、起こらない先に防ぐ。

すでに起こった悪は、断ち切る。

これから起ころうとする善は、起こるようにしむける。

すでに起こった善は、いよいよ大きくなるように育てる。

犀の角

incloudapp.com/posts/relate/スッタニパータ%20犀の角/1

これはスッタニパーダ釈尊の言葉法句經を現代語訳した書籍を紹介する頁です。この頁からテキストだけを部分的に転載します。

___________転載__________

仏教聖典
ブック
/2月 12, 2012 /KOSAIDO CO.,LTD.
「犀の角のようにただ独り歩め」 | WisdomMingle.com(ウィズダム ...
【出版社名】仏教伝道協会

【内容紹介】
ささえあって 生きるよろこび 生かされるよろこび 「仏教聖典」は、仏教思想を現代の人々に伝えるため、数多くの根本経典から重要な文章を抜き出して、わかりやすく編纂したものです。

み仏の教えを誰もが手軽に読め、いつでも心の糧にすることのできるよう わかりやすい現・・・
・・・
このような朋友を得ることができなければ、・・・
・・・
罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の 角のようにただ独り歩め。・・・
・・・
金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金( .... 犀の角 のようにただ独り歩め。 (「犀の角」、「第一 蛇の章」、『ブッダのことば スッタニパータ』)....

ブッダのことば


ブッダのことば
ビジネス
/5月 5, 2011 /WORLD HISTORY,INC.
ブッダの教え “犀の角(サイのつの)” の 意味|New Discovery Diary
日本は無宗教の国だと、我々日本人は言いますが、古くから神道と同じように知らず知らずのうちに仏教に親しんで来ました。

仏教の用語がそのまま四字熟語になっていたり、日本語の中にとけ込んでいます。

しかし、その仏教を開いたブッダ(お釈迦様)がどんな人間で、どのように生き何を教えたのかはあまり知られていません。

こんにちは わんわん 2014年度 が スタートいたしました。 本年度も どうぞ よろしく お願いいたします。 ニコニコ
さて 今月も このブログでは ”ブッダの教え” が 収録されて いる・・・ “スッタニパータ” という ”原始仏典” の 内容について考えます。...

_______________転載終わり


我々が使っている日本語は佛教の語句文法でできていることがおわかりいただけましょう。

父母未生の因縁

父母未生の因縁
sptnkne.ws/ev26

-臨済宗聖典から父母恩重経-


 仏のたまわく、大地の土の多きが如く、

この世に生をうくるもの多けれど、

中にも人間と生るるは

爪の上の土の如く稀なり。

この故に人のこの世に生まるるは、

宿業を因とし、

父母を縁とせり。

父にあらざれば生まれず、

母にあらざれば育てられず。

子の心身は父母にうく。

この因縁の故に

父母の子を思うこと、

世間に比ぶべきものあることなし。


 母、胎児をみごもりしより、

十月の間、

血をわけ肉をわかちて

子の身体をつくる。

身に重き病を患うが如く、

起き伏し、

もろもろの苦しみをうくれば、

常に好める飲食衣服をうるも

愛欲の心を生ぜず。

ただ一心に安産せんことを思う。

月みち日たりて出産のとき至れば、

陣痛しきりに起りてこれを促し、

骨節ことごとく痛み、

あぶら汗しきりに流れて、

その苦しみたえがたく、

これがため忽然として

母の身を亡ぼすことあり。

父もおののき怖れ、

母と子とを思い悩む。

もし子安らけく産れいずれば、

父母の喜び限りなく、

その子、声を発すれば、

母も初めてこの世に生れいでたるが如し。


 もし子、遠くにゆけば

帰りてその顔を見るまで

出でても入りてもこれを思い、

寝てもさめてもこれを思う。

子病み悩める時は

子に代らんことを思い、

死して後も

子の行末を護らんことを誓う。

花の如き母も、

若さに光る父も、

寄る年波の重なりて、

いつか頭に霜をおき、

衰え給うぞ涙かな。


 もろ人あきらかに聞け。

孝養のことは在家出家の別あることなし。

或は言う。

親は己の好みにて子を生めば、子は親に孝養のつとめなしとかや。

されど、こは人の道に反くものぞ。

真の親は子について報謝を求めず、

自らの功を誇らぬものなれど、

子はひたすらに孝養をつとむべし。


 汝ら大衆よく聴け。

父母の為に心をつくし、美味なる飲食、麗わしき衣服、

心地よき車、結構なる住居等を供養し、一生安楽ならしむるとも、

もし父母いまだ三宝に帰依せず因果の理を信ぜずば、

なお真の孝養いたるとせず。

もし父母、かたくなにして仏の教えを奉ぜずば、

子は時に応じ機に随い、

たとえをとり類をひき、

因果の道理を説ききかせ、

未来の苦しみを救うべし。

父母は恩愛の情にひかれて

やがて仏の道に向わん。

即ち生きものを殺さず盗みせず、

男女の道を過たず、

うそ偽りをいわず、

心迷わざれば、

家の内、

親は慈しみ、

子は孝に、

夫は正しく妻は貞に、

親族睦まじく家人順い、

畜類虫魚までも普く恵みを蒙り、

家栄え国和やかに、

十方の諸菩薩天龍鬼神大衆まで

これを敬愛せざるなし。

暴悪の主も不良の徒も、

千萬の悪魔も

これを如何ともすることなけん。

こゝにおいて

父母現世には安穏に住し、

後世には善処に生じ、

仏を見、

法を聞きて長く苦しみを脱せん。

かくの如くにして始めて

父母の恩に報ずるものとなす。


南無父母無二仏 合掌

No title

相変わらず粘着ジャンキーが張り付いとるw。
ボクわかってほちーのオーラ満開w。
さすがニホンジンの歴史を曲解するだけあるw。
きっと武士道でいう恥とかが存在しないんだろうw。

No title

彼女はかつて、生活の為にホステスでアルバイトをしていたが、十階、養成訓、病気になったら、このくらいは尊守できればいいのかも。ITの思想も彼女には有用かも。うつ・適応障害でのリハビリでは対応できなかったのでしょうか?

プロフィール

キチガイ医

Author:キチガイ医
平成25年4月よりTokyo DDCとNPO法人薬害研究センターを設立、平成28年1月からはうつ民のセレクトショップや無料メルマガもやってます(詳しくはリンクをご覧ください)。薬の減薬や断薬、支援施設運営や、執筆や啓蒙活動を通して、自分の素人的意見を発信していければと思います。当ブログはリンクフリーですが、リンクするときは一声おかけください。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR