熊本の地震

まるで日本列島が危険を教えてくれている最後のチャンスのようです。

みなさんもご存知の通り熊本や九州で大きな地震がありました。亡くなられた方にお悔やみを申し上げるととともに、早い復興を望んでおります。マグニチュードは6.4ですが、いわゆる直下型の地震ということで地域によっては震度7、東京もいつ来るかはわからない状況です。さて、この地震で今まで言われていた問題が、またクローズアップされたと思います。そのあたりをシンプルに見てみます。

場所によっては役場に火災も起きているようで、報道よりもひどい地域があると思っていいでしょう。しかしやはり多くの人の心配は川内原発に向かっています。 川内原発の震度は5だということですが、川内原発にはいくつかの重要な問題があります。免震重要棟がありません。鹿児島知事は「命の問題は発生しない」まで宣言しており、「避難する必要はない」そうです。いまだ川内原発は稼動中です。

福島の事故により福島、宮城、栃木、茨城、千葉、埼玉、東京を中心に放射能が垂れ流しとなり、汚染され海外なら避難しなければいけないところに人が住み、内部被爆し水が汚染され五年後から急速に病気が増える事態となり、五年より前でも病気は激増していますから、ますますこれから関東の人間は病気だらけになり日本は滅亡するでしょう。それと同じことがいつでも西日本でも起こるということです。

一定期間以上止めていた原発を再稼動した場合、事故が起こるのは100%ですが、世界一厳しい基準という嘘に守られているから心配はいりません。仮に川内原発から放射能が流出した場合、偏西風に乗って西日本全体が被爆し、結果的には日本全体が被爆することになります。これを拡散政策とか言いますが、自公、アメリカ、陰謀論的構図にある超富裕層、優生学者たちの悲願は達成されることになります。

今日も7:46に余震がありましたけどきっと偶然でしょう。2016年4月14日発生ですが、4+14=18ですし2+0+1+6+4+1+4=18ですがただの偶然です。いずれにしろ私たちが考えなくてはいけないのは、すべての物事は必然性があり、自分たちの問題は病気であれ社会であれすべて自分たちが産み出したものであり、日本の状況は市民の無関心から来ていることを自覚することだと思います。

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No title

拡散『温故知新311 』

大地震や原発事故で近接被災した主権者日本国民住民は、あるだけのタンス預金現金、キャッシュカード、通帳、家の権利書、保険証、携帯、のーとPC 、毛布数枚、タオル数枚、戸締まりとガス電気元栓切って、車(海辺は軽がよい)に家族で乗って、

川内原発なら高速道路幹線道路がすぐに警察によって封鎖されるので、住居地に閉じこめられての放射能被曝を避けるため、警察の緊急道路封鎖前に迅速に宮崎県へ幹線道路を避けて山道伝いに脱出。

山道途中の崖崩れも最近のエンジンが強い軽自動車なら通過しやすいが無理せず廻る。急がば回れ。


川内原発放射能漏れ事故ならば鹿児島県内は直ちに電話、外出してのATM,、ガソリン補給、外食などすべて不可になる。

宮崎県ならすべてOK。 
よって親戚知人への連絡も宮崎から行う。車用充電器があればなお良い。

当座のガソリンと食費を持ち出したタンス預金現金20万ほど(それ以下でも良い)で賄う。

原発事故なら鹿児島県、地震なら震源地の県外へ脱出したら、すみやかに上記の補給や連絡が可能になる。

熊本地震川内原発事故なら、脱出した宮崎からフェリーで四国へ渡って、四国中国に頼るべき親戚知人のない人は、ガソリンと食糧補給しながら、規制されていない道路や高速を使って、落ちついた安全運転で、とりあえず山口県岩国市へゆけばよい。

岩国には日本全国の主権者日本国民が納めた税金から思いやり予算ですべての生活費を面倒見ている、広大な極東一の敷地面積を誇る米軍岩国基地があり、311の時のオバマ政権国務長官ヒラリーが言った『できることは何でもして日本人をお助けする』の言葉通り、日本在住期間が長い米軍基地司令官は日本人のように「義を見てせざるは勇無きなり」を知る青い目のサムライになっているから、地震や原発難民となったサムライの国の日本人が大勢で避難してくれば、必ず基地施設を開放して粉骨砕身救助支援活動に、敏速に取りかかってくれるに違いない。

米合衆国憲法では、米国外にある米軍はすべて現地司令官の軍法指揮下にあり、現地司令官は合衆国憲法や議会や大統領の意向に何ら拘泥することなく、所轄下の米軍全軍をその独断裁量で作戦行動せしめ得ることになっているのだから。

米軍基地司令官の日本の武士(サムライ)のように恥を知る廉潔な人格は、広く世界中が知るところである。

日本のどこで何時大地震や原発事故が起こっても、日本全国の米軍基地から直ちに在日米軍全軍を上げて国際救助隊サンダーバードの如く、救助隊が駆けつけて不惜身命救助活動を粉骨砕身行ってくれることは、万国の万人が全く疑う余地の無いところである。

和を以て貴しとなす日本国憲法第9条精神を、ひとりひとりが身体中に漲らせて、「心の色、赤十字・・・・・・」と歌いながら。

No title

東京から既得権益層が消えたら要注意ですね。

また、鬱民先生のマンションは、耐震は大丈夫ですか?
昭和56年以前に建築確認を得ている物件は危険ですね。

あと、睡眠薬の本を読んでいますよ、なかなかおもしろいです。
私もおおむね知っている知識ですが、細かいところは把握できていないので、よかったです。

あと、地震対応でアメリカ軍が参上するようです。
あとで、多額の請求をされますね。

睡眠薬で病気になる⇒その病気の治療薬を飲む⇒それと同じ構図ですね。

人工地震発生⇒アメリカ軍の応援⇒多額の請求をされる。

強奪するのが、目的ですね。

日向灘が地震の巣になっているため

宮崎は、活断層がないですが、相当な昔、日向灘でマグニチュードの大きな地震が発生し津波が内陸部まで来た形跡が地層に残っているそうです。宮崎に原発が来ることになった時、一丸となって猛反対したそうですが、それ以前に、前身が熊本の水俣病の原因だった会社が宮崎にできて、それができた後、近くの住人に、酷い公害があったようです。実際に、あまりに酷すぎる公害で、現在70歳を過ぎていますが結婚も兼ねて海外の雄大な自然の中へ移住し、二度と戻りたくないと今でも言っている人もいます。現在その会社の公害は、わかりませんが、原発だけでなく得体の知れない物質を扱っている化学・化成工場は、恐ろしいです。

異様な地震

不規則に余震とは言えないような揺れが未だに!?続いていますが、
“ドーン”というものではなく
一気に“ドンッ!”といった「有り得ない」感じの
まるで数メートル真下から
突き上げる…というよりも、「叩き上げる」と表現したほうがピッタリくる激震も幾つか加わって

これらが何度も襲ってくるがゆえに
当初は耐えていた家屋が
徐々に倒壊 あるいは
いつ倒壊しても、「何ら
おかしくない」という様!

未だ断水ながらも、一応
通電は回復した!?ということで、真っ暗闇とはかなり違いますが
それでも 必要最小限の為だけに(自分の場合は携帯充電かな'笑)しか
屋内には入らず
夜間は完全に、駐車場にての[野宿状態]で凌いでいます。

一応 現場状況(あくまでも、自分自身のですが)までに

「心の色、赤十字・・・・・・」沖山磯司

沖井洋一随想集『人は歩道をあるくもの』から、「道は人と動物が通るもの」通りがけがp91-p95抄記します。



 「蓴菜」



 昭和12年。私の父、沖井磯吉は岡山県の山あいの街、矢掛町の町立病院院長をしていた。

 ある春の昼下がり、診察室の机の上に新患者のカルテが届いた。カルテに書かれた名前は「沖山磯司」。

待合室にはフランス紳士を思わせる大柄な男性が顔を伏せてうつむき加減に座っていた。

 患者の近くまで歩みよった私の父は、にやりと笑って
「ヤマだろう」

 と言った。件の患者は
「ウワッハッハばれたか」

 と言いながら立ち上がった。

 それは、我々が親愛をこめて「山オジ」「山崎のオジサン」と呼んでいた父の無二の親友、山崎錦司オジサンで、カルテの名前は「沖井磯吉」と「山崎錦司」をもじったものだった。

 山オジサンは当時、満州国の首都新京、現在の中国東北部の長春市に住んでいた。

新しいものの好きな山オジサンは旅客機で福岡の雁の巣まで来て、わざわざ矢掛町まで遊びに来たのであった。

 数日間、山あいの町に滞在してオジサンは新京に帰っていったが、その間、一家を挙げての大歓迎で、母も山オジサンの好物ジュンサイを岡山から取り寄せて澄まし汁を作っていた。

_______
 
 山崎オジサンと私の父との付き合いは大正10年に始まった。

この年、父は中国の済南市にある約500床の日本外務省済南医院に赴任したが、そこで江戸っ子で歯科医の「山崎錦司」と出会ったのである。

ちなみに、中国では病を治すところは、いくら大きくても「医院」であり、「病院」とは病が集まるところである。

 第一次世界大戦の終わった大正デモクラシーの日本。

青年たちの眼も、日本国内から世界へと広がった。

 
 俺も行くから君も行け

 狭い日本に住み飽いた

 波立つ彼方にシナ(中国)がある

 シナに四億の民が待つ


 若い頃から、世界連邦の信奉者であった父は、迷うことなく海外に出て行った。

そしてそこで、大都会の東京で生まれ育った青年歯科医と、瀬戸内海の小島で生まれた青年外科医が、どこでウマがあったのか生涯の親友となったのである。

 仕事の場所はちがっても、私生活ではいつも行動をともにしていて、乗馬の遠乗りでも、宴会でも、ピクニックでもいつも一緒で、泰山の頂上で二人で逆立ちした写真を逆さにして、

「地球を二人で持ち上げているのだ」とふざけていた。

 昭和3年、中国国民革命軍と日本軍との間に戦火を交える済南事変があった。

負傷した敵味方の兵隊達が済南病院に運び込まれたが、父達は、中国人、日本人の区別なく治療していた。

一部の日本人から、
「なぜ、日本人を優先しないのか」

と不満の声があがった。その時、二人はそ知らぬ顔で
「心の色、赤十字・・・・・・」

と鼻歌を歌っていた。「従軍看護婦の歌」という歌の一節である。


 昭和5年。父に、オランダ外務省の病院に転勤の話があった。

しかし、私の姉たちも修学年齢が近く、父は日本に帰ることを決意し岡山医科大学の研究室に帰った。

山オジサンは
「沖井のいない済南にいても、しょうがない」

 といって、新しい街「新京」にひっこしていった。

 新京では、山オジサンは入院病室のある歯科医院を開設し、やがて満州国(中国東北部)居留日本人会の副会長になり、ラストエンペラー溥儀の主治医を務めていたのであった。


・・・・・・中略・・・・・・


 昭和40年。山オジサンが入院したとの知らせがあった。

 ・・・・・・

 告別式に父は出席しなかった。私が名代として出席した。

 式に出席すると、自分の分身のような親友との関係が四十五年で途切れてしまう。
自分の心の中では、いつまでも生きていてほしかったのではなかったろうか。

 父と山オジサンとは本物の「心友」であったのだろうと思う。   (了) 

_____________

沖井洋一随想集『人は歩道をあるくもの』

著者    沖井洋一

発行者  那須田浩 

発行所  樹海社

      浜松市中区富塚町1204-1-203
       TEL  053-476-4089

2013年7月3日発行
プロフィール

キチガイ医

Author:キチガイ医
平成25年4月よりTokyo DDCとNPO法人薬害研究センターを設立、平成28年1月からはうつ民のセレクトショップや無料メルマガもやってます(詳しくはリンクをご覧ください)。薬の減薬や断薬、支援施設運営や、執筆や啓蒙活動を通して、自分の素人的意見を発信していければと思います。当ブログはリンクフリーですが、リンクするときは一声おかけください。

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